生の女の子

24歳ですが、今まで一度たりとも女性と個人的な関係を持った事がありません。

小学生の頃も、女の子はサッカー部の男の子が好きでした。

中学に入ってからは以前も書いた通りパソコンがあったのでエッチなサイトやエロ同人やエロ漫画、エチ画像サイトで包皮の恥垢を熟成させるようなセンズリライフを送っていました。

高校でもそれは変わりません、ただ食いっぱぐれの無いようにお勉強をややしていたので、お勉強とそのストレスを手っ取り早く除くためというのもありゲームやパソコン、漫画は常に自分のルーティンに入っておりました。

 

小学校高学年、来年からは中学校といった時、私は今でもその気持ちを覚えています。「このままでは私は、いわゆるいじめられっ子になるのでは無いか?いや、まるっきり友達ができないボッチになるのではないか?」と。

 

小学生の時分にしていたアスリートもどきみたいな習い事に加え、自我もよくわからぬ間にお受験のお勉強をしていたものですから、小学6年の2〜3月あたり、私は燃え尽きていたのかもしれません。

 

小学生の時のアスリートもどき習い事は意外に残酷です。男の子は第二次性徴が始まるのが遅いですから、小学生の内は割と体格差抜きの結果が得られます、こと単純なスポーツに関しては。私は中学になるにつれてこの第二次性徴が起こす番狂わせ(本来そっちが本番なのですが)の壁を感じていました。

運動とお勉強、小学生では至極単純なパラメータを自身に小さな自我を形成していた私は、徐々にその旬が短い勝利を追求する息苦しさに嫌気がさしていました。疲れていたのかもしれません。

その反動もあって中高は上に書いた通りキモ~くて地味な生活をしていました。第二次性徴は私にキモい見た目をもたらしただけでした(オス皮脂、陰毛髪、劣毛等…)。

共学ではインターネットでも現実でも見て取れるように、良く言えば元気が良くおしゃべりな男の子、悪く言えば粗雑ないじめっ子タイプが良くモテていました。顔が良い場合は古今東西そういったアルファだなんだみたいなしがらみからは無縁ですが。

前書きが長すぎて申し訳無いのですが、そうこうしているうちに時が流れ、いつの間にか私は女性に対して全くと言っていいほどアプローチを取ろうなどとは思わなくなっておりました。

初めはもしかしたら淡い恋心のような物を覚えていたのかもしれません、しかしそれが誰であったか、誰に対してもあったのか、思い出せません。早い段階で「おそらく私のような性質の人間の恋心が成就する確率は極めて低い、或いは無い」と予知に近い予想をしておりました。それは今になっても正しい事であり、その正解を連発し続けています。

 

 

オスは性欲に支配されがちです。中学に入ればもうナード男子は立派なクソオス1期生です。タフな、或いはアルファ汁が多く分泌されるような健常なオスはその有り余る性欲やセンシティブな感性で異性を求めたでしょう。愛や恋、時にはダイレクトに性欲と、形や動機の認識は違えど「異性を求める」という行為についてはそこに収束します。

私も中学に入りたての頃には割と純粋なスケベ心がありましたから、そのような熱をうちに秘めていたのかもしれません。しかし、インターネットのズリネタは、そのような可愛らしい稚児のような性欲を醜悪なビッグモンスターへと変え、異性との関係性の中で育まれる性・恋(愛?私は知らないのですが…)絡まる情緒とは程遠い、ただただ高カロリーの快感を私に知らしめました。

人の肌の温もりが無いにしても圧倒的に視覚に訴えかける劣情痴情にまみれた蠱惑的なオカズ達…それらがものの数十分数時間で手に入るこのスピード感、、、いつしか私に「現実の異性にセコセコと時間をかけて関係を育む」という選択肢は無くなっていました。オスの唯一の救い、それは「自慰でも射精できればまぁ60点は最低でも満足する」このメカニズムです。毎日表情を変えるズリネタ達、「キモいオスと異性は関係を持ちたく無い」そんな事に悩む暇も無い程、視覚優位の高カロリーな自慰のお供をザッピングする行為はまるで私を探窟家のように熱くしました。

ある日根暗なキモオス生活をしていた(今もしてますが)私は気付きました、このままでは社会に出た時に自分の居場所が無いのでは?と。私はお勉強をしました。容姿のキモさ、根暗さはそれをカバーする社会的な地位(その時点では「学歴」や「資格」といった曖昧なものでしたが…)があれば目立った問題は起こらないと信じて、というかタダでさえキモい根暗なんだからお勉強くらい頑張っておかないともう自殺するしか無いだろうなと、、、

結果的に食いっぱぐれの無いありがた~い状況に今おります(死なない程度ですが、もちろん優秀な方のお賃金と比べたら便器のシミくらいのもんですが)。特にその、自身のキモさ根暗さが絶望的に足を引っ張るような世界でメシを食わなくても良くなっているのは本当にありがたい事ですね。

 

話を戻しますがそんなこんなでまるで私は、自身の置かれている状況を肯定しています。最近はペニ棒を素人異性の膣に突っ込まなくても、特に焦燥や劣等感を感じる事がありません。

なぜでしょうか?

 

それは私の中で「女の子の分解」がなされたからでしょう。

 

「女性の心に触れる事」と「女性の身体に触れる事」は別々に出来、そしてそれらは互いに独立して心の中に溜めていく事が可能であるという事実。

 

そしてこの分解は、メディアの発達により非常に容易になりました。

 

メディアが未発達な時代ではこれが分けられない、だからみんなポコポコ番って擦り合っていた。選択肢が無いから。愛や恋という、その結果だけが観測される(闘争領域の拡大で出てきたから使っちゃいます、ミーハーなので)曖昧なものに夢を見て。そしてその行為が健常者達によってさも「人間として生まれた事の最大の幸福」のように語られる事は、その夢をさらに熱く、深い階層に落とし込めたかのようになっています。

ですが恋愛が自由競争になった今、そのような「熱に浮かされた素敵な夢」は誰もが見れるものではありません、夢を見るのには資格が、一定のクライテリアが必要になったのです。

(このような事に関する詳しい説明はインターネットで非モテがなんたるかをまとめている記事を読んだほうがいいでしょう。僕はあんな詳しくてわかりやすい文章を書けません。)

 

自由競争の恋愛至上主義社会でハナから土俵に上がる基準を満たしていない雑魚オス、私もその一人ですが、それらはこの「女性の分解」を行う事でより有意義な時間の使い方を獲得する事が出来るでしょう。

四肢欠損で生まれた人間がなんとか「サッカーを行う」事に一生を費やすよりも、舌で絵を描き「より良い作品を作る」事の方が有意義ではないか、という話です。そりゃ四肢欠損者がサッカーを「(習熟度にかかわらず)出来るようになる」事を目指す事が無意味だと言うつもりは毛頭ありません。

自分に向いているのは何で、より高められる項目は何か?それを選び、時間をかけて0か1かのところを目指すのでは無く、生きているうちに100まで続けられる、続けたいと思える何か(キモオスは客観評価でも、こと恋愛にまつわる全てを0→1にする事は非常に難しいと考えられます)を探し出す事、それが大事なのではないかということです。

 

つまりキモいオスはいつまでも「チャチで発育不良の、奇形的な男女関係にまつわる思春期感情」に囚われず、性欲を能率的に処理し自分が楽しいことをするべきだという事です。囚われるのは、無駄で、囚われる事それ自体が不幸だです。

 

女の子の肉体は銭で有難くも購入可能です、。人間的な触感優位の感覚を味ったら、次は女の子の心です。キモオスにとって、女性の心は一生触れる事ができません、特に並列状況では。並列状況で女性に心に触れる事がかなうのは、健常な男性のみです。それにそういう関係になったとして、その女性の心というのは本当に触れる事が出来るのでしょうか?心はあやふやです、あるのかすらわかりません。分かってんのか?見苦しいペニスどもがよ、お前らが甘やかすからつけあがんだよ無限大に。やめてくださいね。インターネット辞めろ。

 

その点2次元の女の子には心が明示されています、何故ならば作られた存在だからです。しかしそれ故に「在る」事が確証されています。

 

バラツキが必然の人間の個々の感情を便宜的に分かりやすくした、それが創作物のキャラクターです。だからこそ「在るべき」姿を描く事能うわけです。

 

創作物の女性の心は「創作物としての解釈の幅」を残してfixされています。その解釈の幅の不確実さは、現実の個々の人間のそれとは比べ物にならない程小さく、無視できるレベルでしょう。だからこそ感じる事ができる、活き活きと伝わる、「理解しよう」と思える。比較的容易だから。

そのフィクションである個々の感情のスターターを知っているからこそ、複数の関係性について見ることができる。それがそうであると認識できる。「生で無い」からこそスタートには良く、「生で無い」からこそ掴んだ感情の裾を辿ることでそれらの「関係性」に想いを馳せる事ができる、結果としてより高次元で感情のベクトルおよびその変化を追跡できる。関係性の萌えですか?2次元の女の子の感情、それは虚構のペルソナだが、それらが紡ぎ出すストーリーの襞、それらを受容する事こそ至上の喜びではないのか?私はそう感じております。

それに比べたら実存する、精神と肉体が有機的な汚物で結び付けられ、ただ壊死していくような現実の人間、現実の女性の心の移ろいなど、、、